【武士道 part 10】 ~第六章「礼」仁義を型として表す~

※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。
「礼」は現代の日本人にも、とても馴染みがある言葉ですね。
礼儀、それは人付き合いを円滑にする上でとても大切なものです。
しかし、それに心がともなわず、型だけになってしまえば、虚しいものです。
しかし、型から入るということも、大事なように思います。
さて、今回も新渡戸氏の言葉に耳を澄ませながら、解き明かしていきましょう!
「礼の最高の形態は『愛』である。」
新渡戸氏は、本章の冒頭でこう切り出します。
それはどういう意味でしょうか?
「私はこのように礼を高く評価するが、かといって数ある徳目の中で最高位においているわけではない。
礼を分析してみると、礼はさらなる高位の徳と関係していることがわかるからだ。
もともと徳というものは孤立して存在しているわけではない。
とくに礼は武人特有のものと賞賛され、本来の価値以上に尊重されているが、
それゆえに偽物が生じているようにも思われる。
孔子自身も、うわべだけの作法が礼儀ではないことは、音が音楽と同一ではないのと同じことだと繰り返して説いている。
心が籠っていなければ礼とは呼べないのである。」
そこと「愛」はどう繋がるのでしょうか?
「泣く人とともに泣き、喜ぶ人とともに喜ぶ 」
本章の後半で、新渡戸氏はこう言います。
そして、こう続けています。
「礼儀は、たとえ立ち居振る舞いに優美さを与えるだけだとしても、大いに得るところがある。
しかも、その作用はそれだけにはとどまらない。
礼儀は、仁と謙譲の動機から生まれ出でるように、他者の感情の優しさによって動くものであるから、常に優美な同情となって表れる。
すなわちそれは、泣いている人とともに泣き、喜ぶ人とともに喜ぶ、ということである。」
つまり、前回ご紹介した「仁」の発露として、「礼」はある。
ということではないでしょうか。
それは、慈悲の表れであり、思いやりの表れであり、尊敬の表れである。
そしてそれは「仁」を養うものでもあるのではないでしょうか。
つまり「仁愛」に近づくことこそ「礼」であり
「仁愛」を表現することも「礼」でもある。
これは持論ですが
皆さんはいかがお考えでしょうか?
今回はテーマがテーマだけに、だいぶ真面目になりましたね笑
さて、次回はお待ちかね〜!ドドン!!
みんな大好き「誠」についてです!
そうなの?笑
新撰組で有名ですね!
わかるようで…わからない…誠
それは一体どんな徳目なのでしょうか?

それでは次回も、お楽しみに!

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