【武士道 part 11】 ~第七章「誠」武士道に二言がない理由~
※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。
「誠はものの終始なり、誠ならざればものなし」孔子
さあ始まりました、皆さん大好き?「誠」の回!
皆さんは「誠」についてどんなイメージを持っていますか?
「誠実」「誠心誠意」の言葉に表されるような、清廉潔白なイメージではないでしょうか。
新渡戸稲造氏の武士道の考え的にも、それは合致しています!
しかし、冒頭で引用した孔子の言葉にあるように、どうやら「誠」にはもっと掘り下げた深淵な意味合いがあるようなのです。
今回も新渡戸氏の言葉を頼りに「誠」の茂みに分け入って行きましょう。
「孔子が熱心に解くところによれば、誠は遠大にして不朽であり、動かずして変化をつくり、それを示すだけで目的を遂げる性質を持っているという。」
そう言説する新渡戸氏は
本章の冒頭で、菅原道真のこんな言葉も引用していました。
「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん」
誤解を恐れずに超訳させてもらいますと
「誠」はそれを芯に、真に抱いていれば
ことを成す前に、成されているも同然である。
それこそが「至誠」という境地ではないでしょうか。
では、「誠」とはなんなのか?
皆さんもご承知の通り、「誠」の反対は「嘘」でしょう。
新渡戸氏は本章でこう言います。
「嘘をつくことは罪として咎められていない。むしろ心の弱さとして蔑まれ、不名誉なこととされた。」
「武士に二言はない」
これは有名な言葉です。
「インディアン嘘つかない」
私はこの言葉にも通じるものを感じます。
日本人とネイティブアメリカンの類似性は今更いうまでもありませんよね。
昔々バイカル湖付近で派生した私たちの祖先は、一万数千年前にベーリング海峡を渡ってネイティブアメリカンとなり、ベーリング海峡の手前を下っていったのが私たち日本人の祖先である縄文人というのは、もはや通説となっています。
話が逸れましたが、私は「誠」という徳目に
兄弟であるネイティブアメリカンの精神性にも通じる「純朴さ」「純粋さ」「ピュアネス」を感じます。
それは鍛え抜かれるべき徳目というよりも、本質的に持っているものを、嘘という邪に惑わされることなく、肚に宿しつづける”強さ”だと感じます。
そしてその「誠」こそが、ことを成す”もと”であるのでしょう。
「嘘」とは他人につく前に、自分につくもの。
「誠」とは他人に示す前に、自分に宿すもの。
私はそう思います。
そして、「誠をつらぬく」という言葉があるように、それは通常難しいことなのです。
だからこそ、「誠」をつらぬく精神的強さを養うことが、サムライに尊ばれたのでしょう。
こんな先の見えない時代だからこそ、「誠」を貫き、ことを成していきたいですね。
皆さんはいかがお考えでしょうか?
さて、次回はこれも現代ではよくしれた言葉です。
「名誉」
しかし現代では「名誉欲」などと言われるように、名声を得ることのように捉えられているように感じます。
そんな承認欲求を満たすことが「名誉」だったのでしょうか?
本来サムライにとっての「名誉」とはなんだったのか、明らかにしていきましょう。
それでは次回も、お楽しみに!!
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