【武士道 part 13】 ~第九章「忠義」武士は何のために生きるか~
※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。
はい!今回は7つの徳目の最後になります。
「忠義」編です。
「忠義」と聞くと、現代ではポジティブなイメージが薄いかと思います。
主君に命を捧げる、お国のために命を捧げる、など。
「武士道は個人よりも公を重んじる」
新渡戸氏もそう記しています。
しかし、私の危惧は以下であり、また多くのひとも同じなのではないかと思います。
「それってただの社会的洗脳じゃないの?」
「人類は虚構(ウソ)を作り出したことによって文明化して発展してきた。」
そう断言したのは、現代の知の巨人であるユヴァル・ノア・ハラリ氏ですが
正直、私も同感です。
神話、農耕から宗教、国家や経済システム、メディアに至るまで、集団をまとめてくくりつけてきたのは、論理的帰結としての正しさというより、洗脳です(ただしその中に少しも真実が含まれていないとは私は思いません)。
しかし反面、今、私たちがこうして生きていられるのは、親が産んでくれて社会が育ててくれたおかげであることは、間違いありません。
そうでなければ、私は存在すらしないのですから。
正直、完全に正しい親や正しい社会なんて、今まで存在しなかったと、私は考えます。
だからたとえ、社会や親の教えが偏っていていたとしても、それは仕方のないことなのです。
生まれてきたこと、ここまで育ってこれたことの反面には、そういったことも含まれているからです。
ではどうしたらいいのか?
親や社会、ひとのせいにするのはやめて
自分なりに与えられたことを土台として探求して、未来を創造して繋いでいくことだと、私は考えます。
…はてさて、ここまで読んできて、一体今回のテーマである「忠義」となんの関係があるのか?
と、いぶかっている皆さんの心の声が聞こえてくるようです笑
冒頭の方で引用した新渡戸氏の言葉と、サブタイトルに戻りましょう。
「武士は何のために生きるのか」
「武士道は個人よりも公を重んじる」
つまり、「公」のために生きることこそ武士道なのですね。
しかし、その「公」は時代によって変化していきます。
しかし、絶対に変わらない「公」があります。
それは、私たち人間は太古の昔より、地球の自然環境、他の生き物によって生かされ、互いにバランスを取り合い、支え合って生きてきたと言うことです。
つまり「公」とは人類全体であり、生命全体であり、その母体である地球の自然環境であり、ひいてはありとあらゆる一切のものをあらしめている宇宙法則、理です。
あらゆる社会がいかに変わろうが、その事実だけは変わらなかったはずです。
だいぶ大風呂敷を広げてしまいましたが
それは純粋に、道理をわきまえ、自然を敬い、生命を慈しみ、他者に尽くすことだと、私は思います。
なので、今までお届けしてきた6つの徳目である
「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」
それらは、自分だけの利益のためではなく、自分を生かしてくれているすべての「公」のための「忠義」にこそ活かされるものだと、私は結論づけます。
それこそひとの使命であり、自分に「忠実」に生きることなのではないかと、思います。
「忠」は中心と書きます。
ここにも意味があるように感じます。
「人は自然の管理者ではなく、ケア・テイカー(世話人)なのだよ。」
私はネイティブアメリカンの古老による、この考えが好きです。
お届けしてきた武士道の徳目は、今回で最後となります。
最後に、イエス・キリストのこの言葉で締めくくらせていただきます。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」マルコの福音書10章43~44節
ご精読いただき、ありがとうございました!
次回からも、引き続き新渡戸稲造著「武士道」の続きの章を、私なりに編集してお届けしていきます。
次回は、第十章「武士はどのように教育されたのか」です。
冒頭には、最も重視された「品格」、とあります。
さて、どんな内容なのでしょうか。
次回もお楽しみに!
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