【武士道 part 7 】 ~第三章「義」武士道の礎石 ~

※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。

「義」とはなんでしょうか?

正義、義理、節義…
本著では先人達の言葉を引き合いに出して、新渡戸氏も模索しているようでした。
ですので、いくつか本著に引用されていた先人達の「義」に対する声に耳をすましてみましょう。

「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。
死すべき時には死に、討つべき時には討つことである。」林子平

「武士の重んずるところは節義である。
節義とは人の体に例えれば骨に当たる。中略
だから人は才能や学問があったとしても、節義がなければ武士ではない。
節義さえあれば社交の才などとるに足らない。」真木和泉守

「義とは人が失われた楽園を取り戻すために通らねばならない、真っ直ぐな狭い道のことである。」
「仁は人の良心なり、義は人の道なり。」孟子

先人達の言葉をいくつか通り過ぎたところで、振り返り顎に手をやる新渡戸氏の考えに耳を傾けてみましょう。
「義理についてである。
文字通りの意味は「正義の道理」である。
だが、それは次第に世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになってしまった。中略
とはいえ、義理は本来、義務以上の何物でもなかった。
あえて言葉の由来をいえば、たとえば親に対する私たちの行動は、愛が唯一の動機である。だが、それがない場合は、親孝行を強いるためのなんらかの権威が必要となる。そこで人々はこの権威を義理としたのである。
これは極めて正しかったといわねばならない。
なぜなら、もし愛情が徳の行動に結びつかない場合は、頼りになるものは人の理性である。そしてその理性は、直ちに人に正しく行動することを訴えるからである。
同様のことは他の道徳的義務についても言える。
たとえ義務が負担になった瞬間でも、「正義の道理」が私たちにそれを命令するからである。」


ここで、新渡戸氏の考えも踏まえた上で、私なりに超訳してみます。

「義」とは水の流れる川の道筋である。
そして水とは「仁 (思いやり) 」である。
「仁」が豊かに流れでる時、それを正しく導く道として「義」は役割を果たすが、
そこに水がない時、それはそれでも人が正しい道を歩めるようにと促す義務となる。
「義」とは、すなわち「理性」である。

ここで「理性」の定義が人それぞれ違うと思いますが、私の定義は、理(真理・道理・法則)を察する感性です。
これは仏教も通じます。
ことに、オリジナルの初期仏教では理性をなによりも大切にします。
ゆえに、理を踏まえた上でこう生きるべしという道筋となり、それをたとえ自ら察せなくても、先人たちが察知し敷いてきた道を歩むことが義務とはいえ、邪道をまぬがれ正道を歩むことを助けてくれるのではないでしょうか?

しかし敷かれた道は、はかなくもろい言葉でできています。
世論や時代の流行的価値観によって、解釈する意味が移ろいやすく、形骸化しやすいのもまた確かだと思います。
なので、これからの時代に適合した「義」の定義が必要に感じます。


皆さんは、どうお考えでしょうか?

次は、第二の徳目「勇」についてです。
それでは次回もお楽しみに!

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