【超訳武士道 part 15】 ~第十一章 克己 自分に克つ~
※新渡戸稲造著「武士道」を、私なりに編集してお届けしています。
さて、今回は「克己」についてです。
自分に打ち克つ、自分を乗り越える「克己心」
それは自分のなにに打ち克ち、なにを乗り越えるためのものなのでしょうか?
「克己の理想は心を平静に保つこと」
新渡戸氏は本章でそう結論づけます。
それでは今回も、新渡戸氏の言葉を頼りに解き明かしていきましょう!
「武士道は、一方において不平不満をいわない忍耐と不屈の精神を養い、他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという、礼を重んじた。」
なるほど。
それは日本人であれば、腹の底でよく知っている感覚ですね。
例えば、東日本大震災という大惨事において、海外の人々が驚嘆したという、被災者の方々の平静な振る舞い。
もちろんそれが、完璧に行き渡っていたわけではないかも知れませんが、海外諸国民の心には、有り得ないほどの平静さとうつったのでしょう。
しかし、そういった日本人特有の姿勢は、下手をしたら無感情で冷酷にも捉えられてしまいかねません。
そういった懸念に対して、新渡戸氏はこう記しています。
「ある意味では、私たち日本人はほかの民族よりもはるかに多くの、まさに何倍も物事に感じやすい性質を持っていると、私は確信している。というのも、自然に発する感情を抑えようとすること自体が、苦しみを伴っているからである。」
これはズバリその通りだと思います。
それは無感覚・無関心ではなく、個より公を重んじるがゆえに、堪えて忍んで、心を乱さずに対処していくという、より高度な感情操作術(エモーションコントロール)なのだと思います。
しかしそれも、度を越せばよくありませんよね。
現代社会では、特にその負の側面が、鬱や自殺などの増加に反映しているように思えてなりません。
何事もバランスだとは思いますが、現代に生きる私たち日本人は、もう少し素直な感情の表し方を思い起こしほうがいいように感じます。
それこそ、無感覚・無関心になり、心ないロボットのようになってしまいかねません。
話が逸れてしまいましたが、新渡戸氏も後半でこう記しています。
「克己の鍛錬はときとして度を過ごしやすい。それは魂のハツラツたる流れを押さえつけることもあるし、本来の素直な性質を無理やり、ゆがんだものにすることもありえる。頑固さを生んだり、偽善者を育てたり、愛情を鈍らせることもある。どんなに高尚な徳にも、その反面があり、偽物が存在する。
私たちはそれぞれの徳の中に、それ自体のすぐれた美点を認め、その絶対的な理想を追求しなければならない。そして克己の理想とは、日本人の表現でいえば、常に心を平静に保つことである。」心を平静に保つことと、無感覚・無関心は同じものではない。
ということを、私からも付け加えさせていただきます。それはむしろ、心を研ぎ澄ませつつも穏やかでいること。
そのバランスを極めること。
突き詰めればその境地を目指すことこそ、「克己」なのではないかと、私は結論づけます。
はい!次回は、その克己が極地に達成され、最も見事に示されている
といわれる「切腹」そして「敵討ち」-命をかけた義の実践- 編です。
え?切腹が??克己の極致的実践???
現代人の私たちにはハテナマークしか出てきませんね😅
さあさあどんな内容なのでしょうか!
それでは、次回もお楽しみに!!
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